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- 山賀 博之
- 1962年
- 株式会社ガイナックス代表取締役、監督
『新世紀エヴァンゲリオン』『天元突破グレンラガン』などを生み出した株式会社ガイナックス代表取締役社長。山賀氏は社長業をしながらも脚本、監督までこなす。しかし山賀氏は「アニメは好きではない」「アニメは手段」と語る。ではなぜ『エヴァンゲリオン』、「ガイナックス」は生まれたのか。山賀氏のヒストリー、そして野望に迫る。
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- 元榮 太一郎 (もとえ太一郎)
- 1975年
- 弁護士ドットコム株式会社代表取締役社長兼CEO
弁護士法人法律事務所オーセンス代表弁護士 大学卒業の翌年には司法試験に合格。そして、業界大手のアンダーソン・毛利法律事務所に入所――。そんなエリート街道を走ってきた元榮太一郎を突き動かしたのが、「みんなが弁護士に気軽に相談できる社会を創りたい」という想いと「時代は必ず変わる」という確信だ。安定からあえて不安定へと飛び込み、挑戦を続ける彼にはいったいどんな景色が見えているのか。自分の気持ちに素直に動き、常に前向きに進むマインドに迫る。
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- ハリス鈴木絵美
- 1983年
- Change.org日本代表
米国と比べると保守的と言われる日本で、「キャンペーン活動(著名活動)」を根付かせるべく、奔走するハリス鈴木絵美。米国屈指のイェール大学卒業・マッキンゼーアンドカンパニー勤務・オバマ大統領の選挙キャンペーンスタッフという輝かしい経験を経て、人々の"変えたい"気持ちを支援するChange.orgの日本代表に就任。インタビューを通して、困難なミッションに笑顔で挑む彼女の価値観や仕事に対する想いに触れた。
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- 勝山 康晴
- 1971年
- コンドルズプロデューサー
「日本のモンティパイソンだ。ばかばかしいほど素晴らしい」とニューヨークタイムズ紙を絶賛させ、LA公演ではダフ屋が出るほどの注目を集めた。そんな異色のダンスカンパニー『コンドルズ』の作品作りはもちろん、宣伝、経理を取り仕切り、自ら舞台にも出演する勝山康晴。「チラシ作りから、公演後の会計処理までが作品」と話し、経営者とアーティスト両方の顔を持つ。世の中のつまらない常識に縛られず、好きなことにひたむきに走り続ける彼の生き様に迫る。
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- 松本 美和子
- 1941年
- 声楽家
武蔵野音楽大学卒。1965年日本音楽コンクール第一位、海外コンクールの特別表彰を受け渡伊。ローマ・サンタ・チェチーリア音楽院首席名誉賞受賞、ローマ国立歌劇場で《カルメン》のミカエラでのデビュー以降、世界中で活躍。2006年紫綬褒章他、受賞・叙勲歴多数。武蔵野音楽大学特任教授を務め、音楽活動のみならず次世代の育成にも取り組む声楽界の重鎮、松本美和子。「真実」を追い求め、歩み続ける彼女のマインドを知る。
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- 関谷 健一朗
- 1979年
- ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション 料理長
20代前半に渡仏。ミシュランガイド史上最多の星を獲得するジョエル・ロブション氏に認められ、26歳という若さで副料理長に抜擢。その後ロブション氏の絶大な信頼を受け、氏が「完璧な味とサービスを求め、最高の状態で辞めたい」として『ジョエル・ロブション』を閉店後、パリに先駆けて開店した六本木ヒルズの『L'ATELIER de Joël Robuchon』の料理長として日本に凱旋。驚くほど謙虚で穏やかな関谷が、働くためのエネルギーである料理への愛、そしてその先に見据える野望を語る。
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- 中川 貴之
- 1973年
- 株式会社アーバンフューネスコーポレーション代表
100人いれば、100通りのお葬式。「感動葬儀」という新しい文化を葬儀業界に創り出した、中川貴之。株式会社テイクアンドギヴ・ニーズの創業メンバーとしてウェディング業界で学んだサービス業の本質を活かし、未知の世界であった葬儀業界で独立。そして今、葬儀業界から日本の文化の素晴らしさを世界に広げようとしている彼の想いとは?
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- 森本 千絵
- 1976年
- goen°代表
50th ACC CM FESTIVAL特別賞「ベストアートディレクション賞」、第4回伊丹十三賞など名だたる賞を多数獲得。広告、音楽や映画のアートワーク、本の装丁、CI、空間デザイン、テレビ番組など、人との縁で発生するあらゆることを企画、デザインして制作を続ける日本のトップアートディレクター森本千絵。「世界中の誰もが巻き込まれるファンタジー、クリスマスみたいなことをつくりたい」という彼女が、その価値観、人生観を存分に語る。
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- 高橋 美樹
- 1972年
- 株式会社Be...、HOSPRIGIN Co.,LTD(上海)代表取締役
最もコストがかかる人件費だからこそ、コストとしての「人材」ではなく無限の可能性を発揮する「人財」を育てることをテーマに株式会社Be...を起業。その規模は国内にとどまらず中国は上海にてHOSPRIGIN Co.,LTDを設立。
どこからでも見える、灯台になりたいと語る彼女の考える教育とは。
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- 波房 克典
- 1973年
- ソーシャルプランナー
大手広告代理店のプロデューサーとして活躍する傍ら、官公庁を巻き込んだ熱中症予防声かけプロジェクト、日本ロマンチスト協会など数多くのソーシャルムーブメントを手掛けている波房克典。彼の原動力とその想いに迫る。
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- 平岩 国泰
- 1974年
- 放課後NPOアフタースクール代表理事
娘が産まれたそのときから、歯車は回り始めた。教育と子どもを取り巻く複雑な社会問題を解決する一つの提案、放課後NPOアフタースクール。父として、大人として、子どもたちに優しく手をさしのべる平岩国泰の人となりと情熱の源泉を知る。
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- 斎藤 武一郎
- 1973年
- Revampグループ、アクトタンク株式会社代表
博報堂で、アクセンチュアで、名だたる企業で活躍した後、ハリウッドからの仕事も受注するVFX制作会社を設立。 ばらばらにも感じられる経歴が、エンタテインメントを軸につながっていく。「まずはやってみる」という姿勢で挑戦を続ける斎藤の人生に迫る。
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- 菅野 米藏
- 1948年
- オーデコ開発者(株式会社アイプラスプラス)
白杖を手に街をゆく人。誰もが目にしたことのある光景に、「見えること」という希望の光を与えたいと思い立った時から、彼の挑戦は始まった。平成の平賀源内を思わせる異色の"文系"出身技術者、菅野米藏の人生観に迫る。
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- 小島 淳平
- 1973年
- THE DIRECTORS GUILD
アジア・パシフィック広告祭(アド・フェスト)にてブロンズを獲得するなど、幾つもの広告賞に名を連ねてきた映像監督、小島淳平。 「80歳になっても気になっているくらいCMが好きだと思う」という彼を動かし続けてきた、その原動力に迫る。
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- 山田 力
- 1971年
- 「山田チカラ」オーナーシェフ
"世界最高のレストラン"とも呼ばれる、スペインの三ツ星レストラン 「El Bulli」で腕を磨いた静岡生まれの料理人、山田チカラ。"人との出会いは少しだけ人生を分けてもらうこと" 様々な出会いを糧に躍動を続ける彼の、アクセントに富んだ生き方を覗いてみた。
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- 川島 良彰
- 1956年
- Mi Cafeto代表
当時極めて貴重だったブルーマウンテンの日本初の直営農園開設の立役者であり、ルイ15世も愛飲したという幻のコーヒーを復活させた男、川島良彰。産地の人々に"コーヒーハンター"とまで呼ばせしめた、彼の熱情的な人生観に迫る。
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- 津田 栄
- 1954年
- 日本危機管理学総研 理事
大和證券、外資系銀行の投資顧問を経て、50代で日本の特許制度を変える政策を提言し政治の道へ。 今では、内閣府認定NPO法人日本危機管理総研 理事として、20代・30代の次世代を創る若者を育成している。その情熱の源泉と若い世代に託す想いとは?
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- 鈴木 義幸
- 1967年
- 株式会社コーチ・エィ取締役社長
日本にコーチングの概念を持ちこみ、ビジネスとして確立させた立役者。延べ300社以上、200人を超える経営者、管理職にコーチングを実施。多くのエグゼクティブを指導してきた彼だからこそ感じる"人が持つ可能性"とは何だろうか。
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- 星野 明宏
- 1973年
- 静岡聖光学院中高等学校教諭
年収1000万を超える電通マンから、スポーツ教育を志し静岡の私立高校教諭へ。監督就任わずか3年で弱小ラグビー部を花園へ導く。「成し遂げる」を信念に逆境を乗り越え実績を残した彼が、今の若い世代に伝えたいことは?
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- 肥土 伊知郎
- 1965年
- 株式会社ベンチャーウイスキー創業者
ベンチャーウイスキー社 創業者。 サントリーに7年間勤めた後、2004年にベンチャーウイスキー社を立ち上げる。2008年には、祖父の原酒をもとに造ったイチローズモルトがイギリスのウイスキーマガジンにて日本最高の評価を受ける。