肥土 伊知郎インタビュー

秩父らしいウイスキーを世界へ

#1   肥土 伊知郎 
ベンチャーウイスキー創業者

VISIONARY STORY
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Prologue -とことんやり続ければ道はひらける

2008年、純国産シングルモルトウイスキーが英国ウイスキー専門誌「ウイスキーマガジン」のジャパニーズ部門で最高得点のゴールドアワードを受賞した。先代の想い、心に湧き上がる使命感、ウイスキーに対する情熱が生んだ純国産シングルモルトウイスキー"イチローズモルト"。ウイスキー市場が右肩下がりだった当時に、ベンチャーウイスキー社創業に至った原動力は何だったのか。

interview / Araki Yasuhiro, Noriyuki Nakajima, Kazuhisa Fujita, Ryota Sugawara
text / Ryota Sugawara
photo / Noriyuki Nakajima

Chapter 1 - ものづくりへの想いを確信したサントリー営業時代

肥土 伊知郎が語る「ものづくりへの想いを確信したサントリー営業時代」

蒸溜所を訪れた我々を温かく迎えてくれたのが、その造り主である肥土伊知郎さんだった。祖父が創設した東亜酒造で酒造りに対する想いを無意識のうちに育んできた幼少・青年時代。誰に薦められたわけでなく、ごく自然に醸造学を専攻し、“酒造りがしたい”という想いをもって“山崎”で有名なサントリーへ就職した。しかし、希望はかなわず輸入洋酒を主に扱う部署へ配属されたのだ。

「やはり、希望の部署へ入れなかったので、少々残念な思いはありましたよ。それでも、仕事とは面白いもので、慣れるまでは大変でしたけれど、結構おもしろかったんですよ。営業職として行った取り組みが評価されましたし、仕事自体はとても充実していました。でも、どこかで“ものをつくりたい”という気持ちはありましたね。」

そして、サントリーに勤めて7年が経ったころ父親から思いがけない言葉をかけられた。「東亜酒造を手伝ってくれないか。」

Chapter 2 - 父からの誘い、東亜酒造への入社

肥土 伊知郎が語る「父からの誘い、東亜酒造への入社」

そのタイミングは渡りに船だった。サントリーでの仕事は楽しかったが、元々やりたかった酒造りに対する気持ちが高まっていたのだ。「誘われたときは、血が騒ぎましたね。“あぁ酒造りができる”と思いました。新しい道を歩むことに不安はあったけれども、色々な想いがある中でどの想いに従うか、というような感覚ってあると思うんですよね。本当に色々考えましたけれども、覚悟を決めた後は『うーん(悩)』と悩むようなことは不思議となかったですね。何事も環境が変わったら、その瞬間は不安だと思うけれども、それはそういうものだと自分の中で割り切っていました。」とにかく“ものづくりがしたい”という気持ちが強かった。それが自分の道だと感じたそうだ。

当時の東亜酒造の経営状況は思っていたよりも厳しい状況だったという。また父と子という関係が意思疎通の阻害要因になっていた。どの商品に注力するのか?人員を何に当てるのか?侃々愕々の議論を行い、意見が合わないことは多々あった。しかしそこは父と子。会社にとって良いことが何かを考えて、お互い別の視点を持ちながら邁進していった。

Chapter 3 - 現場でウイスキーの奥深さを知る

肥土 伊知郎が語る「現場でウイスキーの奥深さを知る 」

80年代にお手頃な輸入ウイスキーでブームが始まり、東亜酒造は地ウイスキーブームの先駆けとなるウイスキーの製造に着手していた。しかし、肥土さんが戻った時、既にウイスキーブームは去り、ウイスキーの販売量は激減していた。東亜酒造のウイスキーは、個性が強すぎ、当時一般的だった水割りで飲むスタイルには合わないという社内評であった。肥土さんはこのウイスキーに目をつけた。ストレートであれば独特な個性が受け入れられるのではないかと直感的に感じたそうだ。

「個人的な好みだけではなくて、世の中の人々にどう評価されるかが重要なんですよね。」
直感を確信に変えるために、夜な夜な名店のマスターを訪ねて回ったという。そのとき、世界中のウイスキーの豊富な種類と個性豊かな味に出会い、更にウイスキーを好きになっていった。バー巡りを続けていくとマスター同士の横の繋がりで、『面白いウイスキーを持って飲み歩いている肥土さんという人がいるよ。会ってみたら?』と別のバーに紹介してくれるようになった。バーに行ったことのある方なら、あの独特の良い雰囲気や文化を肌で体感し、肥土さんのいう経験にも頷けるのではないだろうか。

「他の業種なら『店主に、他にいいお店ありますか?』って聞いたら怒られますよね(笑)」でもバーはそれが可能なのですよ。良いバーやおススメのバーを教えてくれるんです。バーテンダーは良いお店や自慢できるお店しか紹介しないんですよね。」

Chapter 4 - 民事再生法の申請。そして営業譲渡

肥土 伊知郎が語る「民事再生法の申請。そして営業譲渡 」

当時の業界の数字だけを見れば、ウイスキーを売ることということはどう転んでも良い選択とは言えなかった。しかし、バーにはウイスキーをこよなく愛する人たちと笑顔がたくさんあった。「ウイスキーが好きな人たちはこんなにたくさんいるんだ、と思いました。」肥土さんは現場を信じた。サントリー時代の営業経験からも現場に真実があると確信していたからだ。

そんな矢先の2000年。経営状態が悪化し、民事再生法を申請。2004年には他社への営業譲渡を決定した。ウイスキー業界の不況はますます深刻化しており、譲渡先の企業はウイスキー事業を撤退しようと蒸溜所と原酒の廃棄を決定した。

「それはなかなか我慢できることではなかった。」と語る肥土さん。ウイスキーは今日造って明日売れるものではない。原酒は先代から受け継いだ大切な宝だ。肥土さんが”自分の子供のようなもの”と表現する原酒の中には20年近い熟成期間を経たものもあった。肥土さんは使命感を胸に、原酒の貯蔵場所を提供してくれる企業を探すために東奔西走した。しかし、時代が時代。人気下降気味のウイスキーの原酒に、わざわざ貯蔵場所を提供してくれる企業が簡単に見つかるはずがなかった。一般的に考えれば最もな判断でもある。いい返事がもらえる手応えすらない日々が続いた。

Chapter 5 - 笹の川酒造 山口社長との約束。そしてベンチャーウイスキー社創業へ

肥土 伊知郎が語る「笹の川酒造 山口社長との約束。そしてベンチャーウイスキー社創業へ」

「本当に感謝しています。」貯蔵場所を確保してくださった笹の川酒造の山口社長への感謝の言葉だ。

肥土さんの想いを受け、「廃棄は業界の損失だ。」とまで言ってくださった山口社長と肥土さんが交わした約束がひとつだけある。先代から受け継いだ原酒をベースにウイスキーを造り上げ、自分で売り切ることだ。

ウイスキーというビジネスは、造り始めから販売まで10年も20年も掛かる。樽に入れた原酒は、四季折々の天候を経験することで、収縮膨張をくり返し、まるで生き物のように呼吸を続ける。これが秀逸なウイスキーには欠かせない成長のプロセスなのである。今売っているウイスキーは先代が造ってくれた原酒あってこそできた大切な財産である。つまり、ウイスキーを世に送り出すためには、今、将来のために原酒を造り続けなければならない。

「原酒が入った樽を世の中に出すと決めた時点で、蒸溜所を設立することは決めていました。」

Chapter 6 - ベンチャーウイスキー社 創業へ

肥土 伊知郎が語る「ベンチャーウイスキー社 創業へ 」

2004年9月、肥土さんはベンチャーウイスキー社を立ち上げた。

翌年5月、祖父の原酒をもとに造ったイチローズモルト600本が完成した。今でこそ発売すれば1日で売り切れる数だが、その当時では山口社長との約束を果たすのに丸2年かかったという。イチローズモルトを小脇に抱えて、バーを訪れた。サントリー時代の営業回りと東亜酒造時代のバー巡りの経験が生かされた。そのうちにマスター同士やウイスキー愛好家たちのクチコミで、徐々にイチローズモルトが知られていった。初めて訪れたバーで、既にイチローズモルトが知られていることもあったという。2年かけて訪れたバーは延べ2,000を超える。

これが世界最高の評価を受けた純国産シングルモルトウイスキー”イチローズモルト”を生み出したベンチャーウイスキー社の出発点の物語だ。
ウイスキー造りへの熱い想い。
お客さんを笑顔にしたいというひた向きな想い。
代々の想いを繋げるウイスキービジネスそのもの。
これらひとつひとつが、ベンチャーウイスキー社創設への原動力となったのである。「僕の経験から言えることは、とことんやり続ければ道はひらける、ってことです。続ける、というのが重要だと思います。」インタビュー後の会話の中で、肥土さんがおっしゃっていた言葉だ。創業までのリアルなストーリーを聞いた後だったからこそ、心に響いた。

arrangement / osica MAGAZINE

【プロフィール】
name /肥土 伊知郎
birth / 1965年
career / ベンチャーウイスキー創業者
ベンチャーウイスキー社 創業者。サントリーに7年間勤めた後、2004年にベンチャーウイスキー社を立ち上げる。2008年には、祖父の原酒をもとに造ったイチローズモルトがイギリスのウイスキーマガジンにて日本最高の評価を受ける。
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