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Mi Cafeto代表 川島 良彰

visionary story 2011.10.15

 
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Mi Cafeto代表 川島 良彰インタビュー

コーヒーハンターと呼ばれた男

もしコーヒーで生きていけなかったら、自分の人生は本当にただ息をしているだけだと言い切った。楽天的でリスクを恐れず、一度決めたらやりとげる。「本当にやりたいことを、なんで全知全霊をかけてやらないのか」と若い世代に喝を入れ、希少な種を探し求めて山野を駆け巡る彼を、現地の人は敬意を表してコーヒーハンターと呼ぶ。

静岡の老舗珈琲店に生まれた川島は幼いころからコーヒーの道を志し、18歳で単身憧れの地エル・サルバドルに渡った。当時の所長に毎日直談判して獲得した国立コーヒー研究所のポストで研究に明け暮れる充実の日々はしかし、内戦によって終わりを告げ、LAへの疎開を余儀なくされた。

そこで出会ったのがUCC創業者、上島忠雄である。老舗珈琲店の倅が親に逆らって生産国でコーヒー栽培の勉強をしていると聞きつけた彼は、当時構想していたジャマイカ・ブルーマウンテン農園プロジェクトに川島をスカウトするため訪米したという。しかし時期をみてエル・サルバドルに戻ると決めていた川島はその申し出を断り、上島は帰国したら必ず連絡を入れるよう言い残してLAを去る。

だが内戦は激化するばかり。やむなく帰国した川島はUCC社員となり、上島の想いに応え、ブルーマウンテンコーヒーを日本に安定供給する基盤を築き、さらにはフランス国王ルイ15世が愛飲したと言われる幻のコーヒー「ブルボン・ポワントゥ」を復活させる。1942年の輸出記録を最後に歴史から姿を消したそのコーヒーの原木を、川島はインド洋に浮かぶレユニオン島で発見。産業の復活から製品の流通までを軌道に乗せた。幾多の成功を収めた彼は、コーヒーの価値を高めて生産国と消費者の架け橋になるという"野望"を胸にUCCを退社し翌2008年にMi Cafetoを設立する。

コーヒーに人生を賭けた男の輝ける価値観と香り高い人間的魅力に迫る。

伝統をぶち壊し、新しい文化をつくってきた。

まさに今日(取材当時)連絡があったのですが、ジャマイカコーヒー史上初の、木樽以外に入ったブルーマウンテンコーヒーが送られてくるんですよ。ブルーマウンテンコーヒーは伝統的に生豆を木の樽に入れて輸出しなくてはならないと法律で定められています。しかし本当に品質のことを考えたら木樽に入れるのは最悪。伝統だ、なんてのはただの自己満足だって僕はずーっとコーヒー公社に言い続けてきた。それがようやく実を結んだんですよ。トラディショナルをぶち壊しました。僕は信念があれば通ると思ってるから信念は絶対に曲げないし、しつこいんです(笑)。

―昔からそういう気質だったのでしょうか?伝統をつくる、というか。
ありましたね。それは新しい文化をつくることですね。僕が高校一年生の時のことですが、当時の母校の学園祭では、新設校ということもあり生徒はお客さんだった。それが納得いかなくて「僕たちの学園祭なんだから僕たちにやらせて欲しい」と校長に交渉し、生徒だけで運営するコーヒーショップ「モカ」を始めました。まだこの「モカ」が、今でも後輩に受け継がれて営業しているそうで驚きました。自分のやりたいことはやらなきゃ気が済まないし、そのためにはなりふり構わずやってしまう。面白いことが好きなんですよ。
―いつごろからコーヒーで生きよう、と決めていらしたのですか?
世界中のコーヒーの麻袋が積まれた倉庫で遊んで、父の焙煎する姿をみて育ちました。音楽は何よりもラテンが好きで、コーヒーの生産地、中南米にものすごく憧れた。産地に行って自分の好きなコーヒーをつくる、コーヒーの世界で生きるってことに子どもの頃から何の疑問もありませんでしたね。

が語る「伝統をぶち壊し、新しい文化をつくってきた。」
が語る「熱意で、世界一のコーヒー生産国の国立研究所に所属。」

熱意で、世界一のコーヒー生産国の国立研究所に所属。

当時のエル・サルバドルは世界トップクラスのコーヒー生産国。そこに行けば研究所がある。それだけの認識で所長に直談判したんです。一ヶ月所長室の前に座り込み、研究員のポストを作ってもらいました。

―18歳で単身渡航。充実感と裏腹に大変なことも多かったかと。
そりゃありましたよ。当時は誰も日本なんて知らなかったし、エル・サルバドルも富裕層では白人至上主義があって黄色人種は差別されました。「今にみていろ」っていうモチベーションだけが頼りですね(笑)。
―1979年頃から情勢が悪化、命の危険もありLAへ疎開される。
LAで半年生き延びて研究所に戻る。その一心でいろんな仕事をしましたよ。タコス焼いたり、語学学校で働いたり。ぎりぎりの生活をしているときにUCC上 島会長にスカウトされました。でも僕は僕でやりたいことがあるとお断りしたら「もし日本に帰ることがあったら、一番最初にワシに連絡をくれ」と言われたのです。
―LAでの苦しい生活の中で大企業のUCCに声をかけられたとき、金銭的な意味で誘惑は・・・?
空港に会長を迎えに行ったら、ガソリン代だって当時の僕にとっては物凄く大金の入った封筒を渡されました。喉から手が出るほどほしかったけど、自分を安売りしたくないからお返ししました。会長は「そんなつもりはないから話を聞いてくれ」と、ジャマイカのブルーマウンテン農園プロジェクトの話を始めました。結局、その話は断ってエルサルバトルに戻りましたが、内戦は激化していて日本に帰国せざるを得ない状況になっていました。それで、約束通り会長に連絡した所、本当に僕のポストを空けて待っていてくれたのです。

コーヒーへの尽きない夢とロマン!UCC時代。

―熱意をもって川島さんを迎え入れた社長の期待に、どんな想いを?
僕はUCCのトップ二代のプロジェクトに関わりましたが、ふたりの生き方にピッタリ合っていたと思います。創業者はコーヒーに事業家として、二代目はコーヒーの文化に、それぞれが夢とロマンを掛けていました。社長室にあったでっかい地球儀を二代目と眺めながら、時間を忘れてコーヒーの話をしたものです。僕が「ここにこんなコーヒーがあって、行ってみたいんですよね」というと、社長が「いいな、行って来いよ」と。あれは本当に楽しかったなぁ。
―世界各地で活躍され、UCC社内でどんな立ち位置でしたか?
手掛けたことが派手だったから、やっかまれたりもしたけど「あんた達だってどんどん提案してやればいい、やらないのはアイディアもないし言ったらやらなければならないからだろう」って。でもね、やりたいことを提案してその上結果を出すって大変ですよ、ほんとに(笑)。退社する時、社長に「数々のチャンスをいただきありがとうございました」とお礼を言ったら、「自分は社長として全社員平等にチャンスを与えている。お前はそれをちゃんと掴んだから、また次のチャンスをもらえたんだよ。ほとんどの人間がチャンスをもらってることにも気が付いていないんだ」と言われました。心底すごい人だと思いましたよ。
―大企業を退社してまで独立された想いはどんなものだったのですか。
やりたいことは決まってたし、UCCでの役割は果したと思ってました。大会社はどうしてもボリュームを求めるけど、僕が求める本当に美味しいサステイナブルなコーヒーはボリュームは望めません。そんなコーヒーを多くの人に知ってほしくてMi Cafetoを立ち上げたのです。

が語る「コーヒーへの尽きない夢とロマン!UCC時代。」
が語る「やるかやらないかを決めるのはいつだって自分。」

やるかやらないかを決めるのはいつだって自分。

―人生=コーヒーというぶれのない道を歩んでいらっしゃいますが、osica読者は価値観が多様化していて一本の道を貫くのが難しいと感じる方もいます。そういう世代に対してのメッセージをお願いします。
上を見たらきりがないし、下を見てもきりがないけど今の若い人たちって欲がなさすぎる。やっぱり日本って恵まれすぎちゃってるんですよ。なんでもっとチャ レンジしないのかな、なんでもっと面白いことしようとしないのかな、って思いますね。すぐ人に聞くし、言われないと動かない。考えろよ、自分で。笑。日本人っていつの間にかすごく弱くなっちゃったな、とは海外行くたびに感じます。生きるしたたかさっていうのかな。そういうのがない。日本の大学生って凄くのんびり暮らしてると感じます。エル・サルバドルは貧困国だけど、その中で大学に行く連中のモチベーションの高さとか意識の高さはものすごいものがあります。本当にやりたいと思ったら、なんで全知全霊をかけてやらないのかなぁ。もしかしたら本当にやりたいことが見つからないという問題もあるのでしょうね。
―そういう停滞した状態から一歩抜け出すためには何が必要でしょう?
まずは己を知ることです。自分を知るのはすごく大事で、目標があるとしたら、今自分はどのくらいの位置でどのくらい頑張らなきゃいけないのか、どこを直してどうするかっていう自己分析ができる。目標がなかったら、それを見つけるきっかけになる。ただね、誰に相談しても、どんなにいいアドバイスを貰ったとしても、それをダイジェストしてやるかやらないかを決めるのは自分ですから。

やるしかない。ってことを毎年繰り返してる。笑

―自分で決めた通りに進めるのは「一度言ったら成し遂げる」という信念からですか?
そうなんですよ。コーヒーで生きていけなかったら自分の人生なんてただ息をしているだけだと思う。LA時代は本当に苦しかったけど、どんなに苦しくてもコーヒーと繋がっていたかった。例えばブルボン・ポワントゥは見つからない可能性が高かったんですよ。鼻で笑った現地の役人に、現在世界で栽培されているコーヒーの品種の多くが、この国で生まれた品種の血を引いていて、どれだけこの国が重要かを伝えて、一緒に探してもらいました。県庁と島民と一緒に試験栽培しましたが、何が一番不安だったかと言えば「復活したコーヒーが、まずかったらどうしよう」です(笑)!それを考えたら夜も眠れなくなっちゃうから、考えるのをやめていました。2005年の初収穫をテイストしたときは、予想通りのおいしさで本当にホッとしたなぁ。
―選択をするときに「失敗したくない、リスクを負いたくない」と誰もが思います。
それはリスクと思うからでしょう?楽しいことだと思えばいいじゃない。僕だって、やり始めて後戻りができなくなってから、こんな大変ならやらなきゃよかったかな、とか考えちゃいますよ。でも誰もやったことがないなら、やるしかないって考えてるとワクワクしてきていろんなアイディアが浮かぶんです。そして自分が後戻りできないようにみんなに宣言すると、10人に1人くらい面白いと思ってくれて、協力してくれるんです。何とかなるし、やるしかない、っていうことを毎年繰り返してる。だから毎日どきどきわくわく、たまにハラハラしてるよね(笑)。

が語る「やるしかない。ってことを毎年繰り返してる。笑」
が語る「品質にあった価値を払う、それが皆がうまくいく形。」

品質にあった価値を払う、それが皆がうまくいく形。

―川島さんの見据える野望とはどんなものでしょう?
コーヒーの価値を上げたいのです。コーヒーの価値が上げれば、良いものを作る生産者はそれを作り続けることができる。国際相場が低迷してる時は、皆さんかわ いそうな生産者の話をするじゃないですか。でも価格が高騰してる時って誰も何も言わない。そんな時実は、日本で焙煎業者が泣いてるのです。焙煎業者は、生豆を焙 煎して喫茶店やスーパーに卸すんですけど、高く仕入れた豆を安く卸さざるを得ない。
だって喫茶店も量販店も、簡単にはコーヒーの値上げなんて認めてくれないでしょう?生産から消費までの流れの中で誰かが泣いている状態が続くと、結局消費者が安全 でおいしいコーヒーを飲み続けることができないアンサスティナブル(持続不可能)な状態になってしまいます。

コーヒーの品質に対してお金を払うような市 場をつくれば、生産者も焙煎業者も安心していいものを作り続けられる、サスティナブル(持続可能)な状態になるわけです。
僕は生産国にすごくお世話になりました。消費国に生まれ消費国の状況を熟知している僕の使命は、生産国と消費国の懸け橋になることだと思っています。だから持続的に安全で美味しいコーヒーが、消費者にとどくパイプを作っていきます。
良いものが正当に評価されれば、ワインのように品質のピラミッドができてコーヒーの価値は上がっていきますが、いまはあらゆる商品が価格競争の時代に 入ってしまいどんどん質が落ちてる。それは生産者にとっても消費者にとってもいいことではありません。品質にあった価格を払う。まぁ、志はいつも高くね(笑)。

が語る「」