山田 力インタビュー

世界中の人達と出会う

#6   山田 力 
「山田チカラ」オーナーシェフ

VISIONARY STORY
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

Prologue -人と出会う。世界と出会う。

"世界一予約の取れないレストラン" "世界最高のレストラン"と言われるスペインの三ツ星レストラン「El Bulli」で腕を磨いた静岡生まれの料理人、山田チカラ。

人と出会うことは、相手の人生を少しだけ分けてもらうということ。

看板もメニューもない、南麻布の閑静な路地にひっそりと佇む白亜のレストラン「山田チカラ」には、今日も心ゆくひと時を過ごしたいという静かな期待を持った人々が訪れる。

高校時代から賑やかな街にいくと心が躍った。いろいろな人、いろいろな音楽、いろいろな出会い。とりわけ「出会い」の面白さには際限がない。目に映る何もかもに魅了された山田は、自らも刺激的な都会で生きる術を得るため、熱海 大月ホテルのレストランで修業の身となり料理の世界に邂逅した。

琴線に触れることならまず動く。後はそれから考える。この山田の無尽蔵な好奇心は、彼を世界の舞台へと運んでゆく。鞄一つでスペインに渡り、料理修行の傍ら日本食レストランのアルバイトで生計を立てた彼は、ひょんなことからそのバイト先を買い取り、わずか半年でもう一店舗展開するほどの繁盛をみせる。成功のカギはアイディアと工夫にあった。
そしてそこでの出会いと経験が、世界一のレストランとして歴史に名を刻んだ「El Bulli」の総料理長フェラン・アドリアに師事するきっかけになる。「El Bulli」では約2年間5部門を経験し帰国。東京「旬香亭」でトップシェフとして活躍した後、満を持してレストラン「山田チカラ」をオープンした。

料理は人を繋ぐためのツールであり、レストランは出会いの場である。その思いを胸に、常に新たな自分、新たな出会いを求め、躍動し続ける彼のstoryとは。

interview / Junpei Ota, Jun Tatesawa, Kazuhisa Fujita
text / Natsumi Nakamura
photo / Kazuhisa Fujita

Chapter 1 - 静岡からの脱出と修行の日々。

山田 力が語る「静岡からの脱出と修行の日々。」

実は僕、昔から料理人を目指していたわけじゃなくて。とにかく東京に出たかったんです。
―意外ですね。どういう経緯でシェフになられたのでしょう?
学生時代の社会ってすごく狭いじゃないですか。僕はそこに閉じこもっているのがとにかく嫌で、自分の知らない世界がある都会に行きたい、そこで生活したいとずっと思っていました。高校卒業後、都会に住む手段として、知人の紹介で熱海にある大月ホテルに入ったんです。でも実は、僕は包丁すら持ったことがなかったんです・・・(笑)。「包丁の握り方」とか「厨房での立ち方」とか、ゼロから教わりましたね。そうしたら、そこに自分の知らない世界があった。すごく面白くてどんどん知りたくなっていったんです。
―大月ホテルではどのくらい働いていらしたのですか?
在籍は4年くらいですね。ただ、そこの料理長は、修業として若い子たちを外に出す人だったんです。東京の店で半年働いて、また自分のところに戻して・・・これを繰り返す。東京、関西、いろいろな都会に行きましたよ。その当時はイタリア料理が空前のブームで、恵比寿のお店で働いていた時には、ほんとにいろんな方と出会えましたよ。東京ってなんていい街なんだろう・・・!と(笑)。 でも、それにもだんだんと慣れていき、「静岡、東京ときたら次は海外だ!」という感じになりましたね。それが無限に広がって今に繋がっています。

Chapter 2 - 神戸大震災から、スペイン修行へ

山田 力が語る「神戸大震災から、スペイン修行へ」

最初にスペインに行ったのは23歳の時。当時神戸に居たんですけど、大震災で店が中断して再開の見込みもない。じゃ、もう行っちゃおう!と。スペイン語もわからないのに勢いだけで行ったので、バックパッカー状態でしたよ。今思うと、ほんとに怖いものなしだったな(笑)。

―事前に準備は全くなさらず?
準備なしで、突然でしたね。スペインに惹かれてからは、料理だけじゃなくてガウディの建築とか土地柄とか、そういうのは本とかで見ていましたけど、その程度でしたね。
―修業先はどのようにして見つけたのでしょうか?
現地に着いて、求人誌を見つけたら辞書を片手にとにかく読んで、片っ端から出向くか、電話しましたね。
―それで、すぐにレストランで修業できたのですか?
できないですよね(笑)。 どうしたら雇ってもらえるかを考えると、「給料を貰わない」ということを思いついて、何でもやるから働かせてくれってカタコトの英語で言ってお願いしました。「無給」というのが効きましたね。その頃は、料理人修業というとフランスかイタリアが多かったんですよ。厨房の雑用係はほとんどが南米からの出稼ぎの人たち。当然、その厨房には日本人なんていなくて、雑用係の人たちからは、「なんでお前は日本みたいな裕福な国から来て、わざわざこんなところで働くんだ?」っていつも言われていましたね。

Chapter 3 - スペインで、日本食レストランを成功に導く。

山田 力が語る「スペインで、日本食レストランを成功に導く。」

厨房では料理なんてやらせてもらえない。ただ立っているだけ。制服も着せてもらえなかった。「そこで立ってれば?」みたいな。でも毎日そうしていると「お前、立ってるだけもなんだからコレやれよ」って、少しずつやらせてもらえるようになるんですよね。
―無給で働いている時、賄いなどはあったのですか?
無いですね。仕方ないから日本食レストランでもバイトしていたんです。お金と、ご飯のために。
―そのアルバイトが、大きな転機に?
バイト先は夫婦経営だったんですけど、ある時旦那さんが亡くなられて、奥さんから「経営してくれないか」と。それで、僕買ってしまったんです。お店を改装して、自分なりに料理を考えて運営したら当たったんですよ。半年後にもう一店舗出したくらい盛況でした。
―はじめてのお店運営では、どんな工夫をなさったのでしょう?
2店舗目は店の名前をつけなかったんです。名前のないお店。お客さんがお店の噂をするときに、「日本人のお店」とか「チカラのお店」って感じにしたくて。あとは、シャッターを付けずに中がのぞけるようにして、営業してないときも音楽を流して外に聞こえるようにする。僕は昔からこういうのを考えるのがすごく好きだったんですよね。言葉も満足に話せない日本人のお店を、どうしたらみんなに知ってもらえるかな、って考えて試してみる。楽しいですよね。

Chapter 4 - スペインの三ツ星レストラン「El Bulli」へ

山田 力が語る「スペインの三ツ星レストラン「El Bulli」へ」

―「El Bulli」で働くようになったきっかけとは、どのようなものだったのでしょう?
お店をやってくうちに、いろんなお客さんや友達が「El Bulli」って知ってるか?フェランのところに連れてってやるって言ってくれて。それで行ってみたら衝撃ですよ。なに?このレストランすごい、って。「El Bulli」ってバルセロナからかなり離れた郊外にあるお店なんですけど、世界中から予約が殺到するんですよね。1年の半分は食材探しとメニューの研究に時間を使って、非常に斬新で独創的な料理を出すんです。「El Bulli」の総料理長フェラン・アドリアって世界最高の料理人って言われてるんですけど、そのフェランと直接話す機会もあって、その時に働きたい!って言ったんですけど、ダメでした。
ポストがないって言われてしまって・・・。それで日本に帰ったんです。
―スペインでの2つの店舗は順調でしたよね?帰国の決断はなぜ…?
その頃は取材を受けたりTV出演したり、順風満帆な生活だったんですよ。毎日のんびりしているし、収入もあるし。でもある日、ふと、このままでいいのかな?って思ったんですよね。嫌なんですよね。のんびりしすぎているのは。競争がないと。競争というか…常に動きと変化がないと。それで全部引き払っちゃって、帰国したんです。

Chapter 5 - フェラン氏との再会がEl Bulli入店のきっかけ。

山田 力が語る「フェラン氏との再会がEl Bulli入店のきっかけ。」

ある日、フェランが初来日することになったんですよね。 スペイン大使館が国のプロモーションも兼ねて彼を招聘したんです。日本のTV局が密着取材するから、通訳兼お世話役を…ってことで僕が抜擢された。こんないい話はないですよね。その時「僕は「El Bulli」にずっと行きたかった。行っちゃダメ?」って感じで話してみたら、いいよって。彼が帰った1か月後くらいには向こうに行ってましたね。
―「El Bulli」ではどんなお仕事を?
「El Bulli」では、みんなが各部門をローテーションするんですよ。最終的にみんな平等に仕事します。一番好きだった部門は仕込みですね。出来上がりのお皿を見られないからみんな嫌がったけど、その仕事さえ終えたら他を見られるから、僕はすごく好きでした(笑)。
―フェランシェフってどのような方ですか?
彼は…最高の指揮官じゃないですか。 彼、たぶん料理はできないと思います、僕は。もう頭だけ。発想だけですね。彼の下にあるピラミッドを指揮して、最高のお皿を作り上げる。普通の料理人と違うのは、まず出来上がりを考えて、それを作るためにどうするかを考えるところですね。 フェランの料理は和食と似てるってよく言われるんですけど、和食って口の中で仕上げる料理なんですよ。外国の料理はお皿の上で出来上がっている。フェランの料理はお皿の中に別々のものがあって、それを口の中に入れて初めて完成する、そこが似てるんですよね。

Chapter 6 - 料理の極みへ 「山田チカラ」オープン。

山田 力が語る「料理の極みへ 「山田チカラ」オープン。」

―El Bulli」で約2年間働かれて、戻ってきた後は?
東京赤坂の旬香亭っていう、熱海で一緒に働かせてもらっていた齋藤元志郎さんのお店でトップシェフをやらせてもらってました。 実は僕、日本では自分で店をやろうと思ってなかったんですよ、ずっと。 というのも、日本で「El Bulli」みたいなスタイルのお店を求められたんだけど、個人であんなに大きくて、予算のかかる仕事は難しいですから。でも旬香亭で働いてる時にお茶と出会ったんですよ。 何にも知らないままお茶会に行って…すごかったんです。あの会話がないのに会話して、お互いのことを考え合ってる空間にびっくりして、楽しくて。
―それが今の「山田チカラ」のスタイルを?
そうですね。
僕はレストランは出会いの場で、料理は人と関わるためのツールだと思ってるんですよね。どういうツールを望むかっていうのはお客様次第で。それを見極めるのが料理人の大切な仕事のひとつですよね。この人一体何を望んでいるんだろう、っていう。 飾らない潔い空間で、余計なことは言わずに、予約の電話でお話しした時に、その人がどういう人で何を望んでるのかっていうのを考えて、提供する。人と人との中心にあるのが料理だと思ってます。

Chapter 7 - 新たな出会いを求めて、世界中へ。

山田 力が語る「新たな出会いを求めて、世界中へ。」

―osicaの読者は20代30代が多くて、まさに山田さんが大きく動いていた頃の年代なんですよね。そういった世代の方達に向けて何かこう…メッセージをお願いします。
世界を見ろって感じですかね。あと、言葉を覚えろ(笑)。
若い子たちも、よく海外で勉強したいって言うんですけど、料理の方にしか目がいかないんですよね。でも、料理ができなくても言葉ができたら、向こうに行って料理ができるようになる。絶対言葉ですね。出会うためにはやっぱり言葉ができないと。 で、その出会いからどんどん枝分かれしていろんな話が舞い込んでくる。そして新しいことに飛び込むのを恐れない。そうなったら毎日楽しいですよね。
―今後はどんな野望を抱いてらっしゃるんですか?
最近はロンドンでお店をやらないか、っていうのもあって、行ってみたいなんて思ってますけど…ころころ変わるんで(笑)。 好きな陶芸作家さんのもとで働いてみたいとも思いますし。 ここ「山田チカラ」を続けて老舗にしたいっていうのもありますね。20年30年続けて、山田チカラっていうお店があったよね、って言われたい。レストランで朝食をやるとか、今まで誰もやんなかったようなことを考えて挑戦するのが好きなんで。
でもやっぱり人との出会いで変わっていくんだと思います。僕の人生はいい出会いとご縁があったからこそ今につながっているから、世界中の人に出会えるように、動き続けたいですね。

arrangement / osica MAGAZINE

【プロフィール】
name /山田 力
birth / 1971年
career / 「山田チカラ」オーナーシェフ
"世界最高のレストラン"とも呼ばれる、スペインの三ツ星レストラン 「El Bulli」で腕を磨いた静岡生まれの料理人、山田チカラ。"人との出会いは少しだけ人生を分けてもらうこと" 様々な出会いを糧に躍動を続ける彼の、アクセントに富んだ生き方を覗いてみた。
  • このエントリーをはてなブックマークに追加