Prologue -技術者として、視覚障碍者に何ができるのか。
『僕はもともと文系出身なんですよ』と笑顔で語る菅野の物腰は、至って柔らかい。 しかし座右の銘は『一意専心』。ただ一つにひたすら心血を注ぐことを意味する言葉からは、技術者としての力強さと信念がうかがえる。
視覚障碍者用感覚代用機"AuxDeco(オーデコ)"は、モノに触れずに認識できる。視覚障碍者の生活の質を劇的に改善したこの機械は、メディアに数多く取り上げられ、世界的にも非常に高い評価を得た。視覚障碍者に『見える』光をもたらした彼の情熱と、人生観に迫る。
『モノに触れずに認識する』この言葉が意味することを、私たちが理解するのは少し難しいかもしれない。それはひとえに、私たちの視覚の恩恵に他ならない。
街を歩く視覚障碍者のことを思い描いてほしい。
彼らは常に白杖で道を探り、手で触れてモノを知る。行く手の歩道は無秩序に並べられた自転車が点字ブロックをところどころ隠している。白杖がその自転車を捉えるまで、彼らはそこに自転車があることが解らない。あるいは白杖で捉え損ねたスタンドが、彼らの足を先に捕まえてしまうかもしれない。
触れてみるまで解らない危険と隣り合わせの彼らに、菅野米藏の手によって一筋の光がさした。彼の開発した視覚障碍者用感覚代用機"AuxDeco(オーデコ)"は、小型カメラで撮影された映像を電気刺激に変換、額(おでこ)の触覚でモノの形や障害物の有無を感じ取れる。この画期的な技術を開発した菅野は、意外にも文系の出身だ。「海外に憧れていてね。貿易を仕事にしたいと中学生の頃から思っていました。あくまでも電気機械をいじることは趣味でしたね」と語る彼が廻りめぐってたどり着いた、開発者としてのライフワーク。
『一意専心』そのままに生きる彼の言葉と、そこから紡ぎだされる情熱に触れることで、あなたの心に灯がともり、そこに新しい光が『見えた』としたら、これほどに嬉しいことはない。
interview / Jun Tatesawa, Kazuhisa Fujita
text / Natsumi Nakamura
photo / Kazuhisa Fujita
Chapter 1 - 「やりたいこと」を、やる。

- ―初めてのお仕事は営業だったそうですが、どういった経緯で技術者の道を歩み始めたのでしょうか。
- 趣味の電機と海外の憧れが両方叶うかもしれない、なんて思ってアイワに入社したんですけどね、いやー…そう上手くはいかなかった(笑)。ニクソンショックの影響で海外事業が縮小してしまってね。営業職で全国2位っていう成績を収めたこともあって、若気の至りなんですけど、他でも頑張れるんじゃないかと思って、憧れだったコンピュータをやろうと1年足らずで退職して、当時中途採用を募集していたIBMに応募してみたんです。
- ―いわゆる「キャリアアップのための転職」だと思うのですが、当時は転職に対してどのような価値観だったのでしょう?最近は仕事に耐えかねて転職する方も増えましたよね。
- 僕らの頃は転職ってポピュラーなものじゃないですから…良い評価なんて一つもありませんでしたよね。ただ僕はね「転職」って2つあると思うんですよ。 今の自分に満足しないで「次のものをやりたい」って言って転職する人は、転職しても伸びると思う。だけど「なんかこれ…嫌だな」って言って仕事を変わるでしょ?そうするとね、変わった先でも嫌になるんだよね。だいたいその繰り返しになると思うんですよ。自分自身が伸ばしたいっていう夢っていうか、欲を持ってないと転職しても結局何も変わらないですよね。
Chapter 2 - 備えること、そしてやってみること。

- ―転職先のIBMは全くの異業種ですよね。営業出身のシステムエンジニア(以下、SE)希望者に対してはどのような反応でしたか?
- 営業、SE各部門のトップが面接官でしたが、やはりなぜ営業志望ではないのか聞かれましたね。「僕は全く知らないコンピュータでも売れと言われたらたぶん売れます。でも売る物を知らなというのはいかがなものか…だから僕はコンピュータの勉強をしたいんです」と答えたら、笑われながらもSE採用になりました(笑)。
- ―SEとしてまずはじめになさったお仕事は?
- まずコンピュータのイロハのイからマニュアルでの勉強ですよね。ただ参りましたよ。そのマニュアルはすべて英語なんです。でもとにかく3年やってみよう、それでだめなら潔く諦めよう、と(笑)。そしたら2年目くらいから慣れてきて、もともと電気機械は好きでしたからどんどんのめり込んでいきました。
- ―菅野さんがチャレンジし続けることができた理由を教えていただけますか。
- 何でもいいから夢を持って「やりたいこと」にどんどん挑戦することかな。「いい波」に乗りたかったら毎日必死で波乗りの練習をする。「いい波」がいつ来るかわからないから…って練習をしないと、いざ来ても乗れないんですよ。でも練習してるとちゃんと乗れる。僕の持論なんですけどね。就活なんかもね、やりたいことを実現したいから頑張るならいいんですけど「一流だから」で選んだ会社は、たぶん入社しても辛いんじゃないかな。
Chapter 3 - のたうちまわり、這い上がってみよう。

- ―その後IBMを退職してソフトウェアの会社を設立なさいました。独立にあたって、恩師というような方はいらっしゃいましたか?
- それは…なかったというか、つくらなかったって言うのが正解ですね(笑)。 IBM時代にいろいろな会社のトップの方と出会いましたが、僕が特に魅力を感じた方たちの共通点は「創業者」だったんですね。創業して成功した方って、どうしても成功した部分ばかり注目されますけど、実はみなさんほんとに大変な苦労をなさってるんですよ。 だからこそ人間的に幅があるというか。僕は、そういう人間に成長したいという憧れがあった。だから独立するときも、とにかくゼロから、自分の力で這い上がってみよう、と。 スタートは遅かったです。45歳からの独立ですからね。でもどうせやるならそこからやって、成功させて、そういう創業者の方々と並びたいっていうのが独立の動機だったんですよ。生意気ですけどね。
- ―不安はありませんでしたか?
- 不安はなかったですけど、妻のクレームは大きかったですよね。そういう意味では家族には迷惑かけましたね(笑)。
- ―ではどちらかというと自信を持って?
- 自信というよりは信念でしたね。のたうちまわったところから這い上がらない限りは肩を並べられない、という。
- ―かっこいいですね…
- いや、かっこよくないですよ。未だに成功してないんですから(笑)。
Chapter 4 - 技術者としてできること。

- ―AuxDeco発案のきっかけは街で見かけた、不安そうに歩く視覚障碍者の方でした。技術者として何かしたい、と思い立ってから開発までの経緯を教えてください
- 何も見えないから不安なんだろう、何か見える代わりのモノがあれば…とは思ったんだけど、何がいいかがわからない。初めのヒントは飲んだ帰り道です。酩酊してるからハッキリ見えないんだけど、どこにもぶつからずに帰宅できた。それでふっと思ったんだよ。きちっと見えなくても、かすかな明かりと輪郭がわかれば危険を避けられるんじゃないかな、って。真面目な研究者だったら100%を目指すんでしょうけど、僕はいい加減ですから(笑)。ある程度でも、ひょっとしたら役立つんじゃないかなと。 それから半年ほどは試行錯誤の連続ですよ。そのうち今度は低周波治療器に案を得て、電気刺激の信号をうまく調節して触覚に伝えることを思いついたんですけど、痛いんですよね。ピリピリして(笑)。 電気刺激の利用は特許の申請をしたものの、痛みは解決しなかった。悩んでいた頃に新聞で東京大学の舘研究室を知りました。舘研究室では電気刺激を触覚で伝える技術を多く研究していたんですね。「これだ!」とすぐに連絡をとって、初めてお会いしたその日に研究の同意が得らて、そこから共同研究がスタートしたんですよ。
Chapter 5 - その国特有に仕組みを利用して、量産へ。

- ―資金面はいかがでしたか?海外の方が対福祉資金は協力的なイメージです。
- 資金調達には苦労しました。結論から言うと、海外でも資金面はイージーではないです。理解は確かに早いのですが、金銭面では別のモノサシを使う。出資のリターンを測るんですね。その計算に当てはまらないと、いくら福祉でも出さない。福祉的な故にリターンの大きさは非常に測り難いんです。AuxDecoの場合は価格面のハンディがあるんですね。まだ数が出ないので手作りに近い上に、かなり高度な技術が詰まっているので結構高いんですよ。工業製品として量産すると安くなるので、今その方向で頑張っているところです。
- ―量産する場合は必然的にアジア圏が視野に入るのでしょうが、特許製品を国外に持っていくことについてはいかがでしょう。
- 怖いですね。だから非常に慎重に動いています。恐らくこれを無警戒に現地でパッとみせたら2日後にコピー製品が出来上がってきます。ただし一番怖いのはコピー製品が出ることじゃないんです。粗悪品が消費者の手に渡って一旦評価が地に落ちると、そのあと本物を持って行っても全然評価してもらえない。それが怖いんですよ。悩み抜いて考えついたことは、海外進出するならその国特有の仕組みを利用するべきだ、ということでした。例えば中国なら政党や政府機関と上手く連携して、その国の文化や歴史を取り入れていく。今はそういう方面からのアプローチをしています。
Chapter 6 - 世界を知り、日本を知る。

- ―日本のモノづくりの技術は中・韓国に追い抜かれたと言われることもありますが…
- いえ、日本の技術はまだまだ高いですね。このままだと危ういかも知れないとは思うけど、でも今まで培った信頼性っていうのはまだ揺らいでないです。中国でも日本製は高いんですよ。中国製も普及していますけど、富裕層は日本製を買う。壊れない、または壊れた時の対応が的確だからです。ダイキンなんかはエアコンの分野でトップレベルの信頼性を誇って大成功しています。そこなんでしょうね。決して手を抜いちゃいけない。これだけは絶対にマネできないよ、というもの。ただ中国も、自国製品でもコアの部品はきちっと日本から輸入して、信頼性を高める戦略を組む。これは素晴らしいですね。僕はどの国に対しても偏見がなくて、みんな対等だと思ってる。ただ各国の特殊事情は的確にとらえて対応しないと間違いの元になります。それは偏見とは違いますからね。
- ―そういったバランス感覚は海外経験で培われたのでしょうか。
- そうですね、それは影響しています。それに海外にいたからこそ自分の国のありがたさも感じましたね。以前ギリシャの銀行に両替に行った時、中東の方がカウンターで揉めていたんです。「両替」ができないんですよね。いくら現金があってもダメなんです。これは国の力ですよ。あぁ日本の国ってありがたいなって思いましたもん。経済力や治安の良さはすごいですよ。
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Chapter 7 - 一意専心。

- ―最近は海外に興味を持たない若い世代が増えている、と言われています。
- なんでかな?って僕もよく考えるんですけど、バーチャルの影響はある気がしますね。あたかも経験したかのように錯覚してしまう。実際はとにかく行かなきゃわからないですよ。だから僕は英語だけじゃなくてお隣の国の挨拶の言葉くらいは学んだ方がいいと思っています。思い切って小学校や幼稚園で在日の方にボランティアで教えてもらう。そうすると、高校とかの修学旅行でアジアに行った時もどんどん興味がわいてきて自ずと次はここに行ってみよう、となると思うんだよね。
- ―何事にも興味を持って取り組んでほしい、ということですね。
- そして「思ったこと」「ひとつの事」を思いっきり、とことん極める意思を持ってほしいんだよね。意外とね、やれば何でもできちゃうから、ひとつに専念するのは難しいんですけど。専念しながら、視野は広げておく。与えられたチャンス、自分が手にした仕事を、最大限の成果を出すように必死で努力すると、やっぱり見てる人は見てるんですよ。どんな仕事でも、どんな立場にいても。本当にそう思いますよ。 僕はIBMに採用されて真っ先にパスポートを取ったんです。海外に行く保証なんてない時期にですよ。でもこれが僕のお守りだったんですよね。必ず行く、これを使って仕事をするんだ、っていう。こういう信念というか、意地っていうのはね、若い人には必ずもってもらいたいんですよ。
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