Prologue -世界が認める声楽家:松本 美和子とは
武蔵野音楽大学卒業後、1965年に、15世紀にローマ教皇によって創設された歴史あるイタリアの音楽大学ローマ・サンタ・チェチーリア音楽院を首席で卒業。
その後、72年にローマ国立歌劇場で《カルメン》のミカエラでのデビュー以降、ウィーン国立歌劇場、英国ロイヤル・オペラ、バイエルン国立歌劇場など世界各国の主要歌劇場で活躍する。 98年4月《蝶々夫人》で新国立劇場98-99シーズン開幕を飾り、2002年12月にはソフィア国立歌劇場《ラ・ボエーム》に出演。 03年にはA.プレヴィン作曲のオペラ《欲望という名の電車》、09 年プーランクの《声》など多くのオペラ、コンサートに出演している。 数々のコンクールなどでの受賞経験後、06年に紫綬褒章、12年旭日小綬章を叙勲。
現在は、武蔵野音楽大学特任教授として、自身の音楽活動の他にも、次世代の育成をライフワークのひとつとして取り組んでおり、彼女の生徒の一人である佐藤美枝子が'98年チャイコフスキー・コンクールで日本人として初めて優勝した。
目標を定めることはできる。行動にうつすことも。だが「努力の仕方がわからない」と嘆く人は多い。努力の最大の敵は疲弊ではなく自己否定だ。これに何の意味がある?と自問した時、多くの人が自答を得られず不毛を感じ、諦観の念に辿り着く。
愚直に、頑なに、盲目的に。何かを成し遂げるとは、その飽くなき反復作業の延長線上にみえてくるのかも知れない。
interview / Junpei Ota, Jun Tatesawa, Kazuhisa Fujita
text / Natsumi Nakamura
photo / Kazuhisa Fujita
Chapter 1 - 人形の家。

- ― 今や松本美和子と言えば声楽界の大御所。世界中に松本さんの声に魅了された人々がいますが、声楽の道を歩みはじめた契機を教えて頂けますか?
- 私、本当に何となく何となくで進んできたんです。幼少期からピアノを勉強していて。嫌いではないけど遊び気分。母にピアノを習う理由を聞いたら「情操教育のため」と言われたんです。中学の音楽の先生が「松本さんの声なら歌も面白いんじゃない?」と仰ったから、情操教育なら歌もそうでしょ?わたし歌を勉強したい、ってピアノから逃げるために母に言いました。
大学も母が「音大がいいんじゃないの?結婚しても歌とピアノで楽しんで」なんて言うものだから何となく受験して。聴音(奏でられる和音を聴き取る試験)や初見(初めて見る楽譜の曲を演奏する試験)もピアノの経験があったから苦もなく入学できました。そしたら初めてのレッスンで先生が仰ったんです。「皆さん、不随意筋である横隔膜を、わたくし達は随意筋にします」って。私なにを言われたのか全く理解できなくて。お隣の子に「横隔膜ってなに?」ってたずねたら、「お腹の囲りにあるヴェールなの」って。こんな所にヴェール?動かないヴェールを動くようにする?わからない、どうしようって逡巡するうちに歌う順が回ってきて。緊張で身体はカチコチ、声なんて全然でない。皆ができることが自分はできない。18年の人生で初めて屈辱感を味わったの。でもね、うちひしがれた気分で寮でお喋りしてたら皆が言うんです。勉強から開放されて本当に嬉しいって。私が自我に目覚めたのはその時ね。
自分は今まで受験勉強で苦労していないし、全力で何かをしたこともない。そういう自分を心から恥ずかしいと思ったんです。私は「勉強した」という記憶が欲しい。これだけは頑張ったという記憶を持って、誇りを持って死んでいきたいって多感だった18歳の時に思い至りました。
Chapter 2 - 学ぶということ。

- ― 「頑張った記憶を持つ」…自分が納得するまで努力することを指すと思いますが、踏み出した一歩はどのようなものだったのでしょう?
- 他の方たちが歌ってるのに自分だけ声が出ない、その屈辱感に陥ったことが契機になりました。「声をだせるようになりたい」その一心でとりわけ厳しい先生のレッスンに通うことにしました。初回のレッスンで「あなたの今の声は浪花節の声。この状態から勉強するのは大変むつかしい。だから家に帰って花嫁修行して、いいお嫁さんになりなさい。ただ、それともまだ声の事を勉強したいかどうか、一週間考えなさい」と言われた時、学ぶことを即答しました。だって、今までになにかを懸命に勉強したという記憶がないのを恥じていましたから。でも本当に厳しいレッスンでした。ただの一音を一時間、ひたすら繰り返して。何度も「違う!」と言われ続けて極々稀に「よし!」をもらえたその音を全神経で記憶して、「よし」の音を帰り道の間中小さく呟きながら大学まで戻ってすぐ練習。一音一音、鍵盤を作るみたいに声を作っていきました。私も忍耐が必要でしたが、先生もどんなに忍耐されたか。
時にはあまりの厳しさに「教室に入るのが怖い」と思うことすらありました。でも逃げなかった。そのお陰でもともと身体が弱くて毎日のようにお医者様で注射を打って頂いていた時期もあったくらいだけど、レッスンの日々で身体も心も鍛えられました。
- ― その厳しさを乗り越えられた理由はどこにあるのでしょう?
- 私の場合は恩師のおかげです。素晴らしい方でした。先生はあまりご自分のことを語られませんでしたけど、レッスンの合間にぽつぽつと語られた言葉から、先生の素晴らしい人格が滲み出ていました。先生の生まれは韓国で、当時の日本で本当に辛辣な扱いを受けられたそうです。まともな仕事はひとつもない極貧生活の中、歌を学びたい一念で日銭を稼いでお金を貯めてレッスンを受けられる額になったらそれを握りしめて学びに行く、そういう日々。あまりの辛さにお酒を毎晩飲んで、自らの喉を潰そうとされたこともあったそうです。でも声は残った。そういう生き様や情熱を知り、自分がいかに恵まれていたかを省みたし、真摯に取り組もうと思ったんです。
Chapter 3 - 自分が見聞したことだけを信じる。

- ― 在学中からコンクールに出場、次々と素晴らしい成績を収め、学びと表現の場は海外へと広がっていきます。入賞に賭ける意気込みはありましたか?
- 初めての参加も例によって友達に誘われたからなんです(笑)。だから「賞を欲しい」なんて思いは皆無でしたけど…でも出場するとなれば勉強に拍車がかかりますから、進歩するためにコンクールは受けていました。
- ― 結果がついてきたことに思い当たる理由はありますか?
- 振り返ると、出場する皆さんは華のある「背伸び曲」を歌っていました。でも私は自分の今の力で歌いきれる「身の丈にあった曲」を選んでいた。そうすると破綻のない表現ができて、そこが評価されたのだと思います。それに歌曲にもオペラにも歌詞があるでしょう?昔から本の虫だったお陰で言葉に対して感性豊かに歌えていたかもしれない。読書って大切です。文字と文字の行間にイメージが膨らむ、思考の入る余地があるってすごく大事なことだと思うから。豊かなイメージ力はすべての社会に必要だと思います。特に芸術の世界では絶対に不可欠な力です。
- ― 活動の場が海外に移ったことで一番大変だったのは何でしょう?
- 人間関係に尽きますね。ファバレット教授の公開レッスンを東京で受けた時、先生から直々に留学のお誘いを受けました。大喜びでいきましたが同じ日本人門下生からやっかみのいじめに遭って。ひどい陰湿さに病気になったほど。でもその時気づいたんです。私は学ぶためにここに居る。なのに他人の心無い言葉、行動で傷ついて病気になって、勉強もできない状態でいることの虚しさ、馬鹿らしさときたら。親友といえる人から裏切られたなら話は別です。でも、いじめた人たちは単なる門下生で親友じゃない。他人に何を言われても、それが悪意である場合、どんなことも気にするのはやめよう。自分自身で見聞したことだけを信じよう。神様の前で恥じることのない真実のみを求める強い人間になろう、って決めました。この経験は私にとって人生の中で最も大切な神様からのプレゼントの一つだと思います。
- ― 過酷な経験も、外の変化に惑わされない、内なる軸を磨く礎になさったのですね。
Chapter 4 - 華やかな夢の世界、オペラ。

- ― 海外で培った経験を経て、松本さんは歌曲からオペラの世界へと歩みを進めます。新しい表現方法を、どのように追求していったのでしょう?
- 当時、私の先生であるファバレット教授は「声」ではなく「曲」を、「音楽」を教えて下さいました。だからメゾ・ソプラノからソプラノに転向して「発声」で悩みあぐねていた。その時また素晴らしい出会いが訪れました。レナータ・スコットです。華やかな夢の世界、オペラ。その本場イタリアをはじめ世界中で活躍していた方です。ローマ の劇場で、彼女の歌を聴きました。微笑むように、楽しそうに、美しく素晴らしい高声で歌う方でした。いつも「どうするんだろう、どうやって高音をだすんだろう?」って観察し続けました。そして気づいたんです。彼女は口をスマイルの型に開けて歌う。私は当時、縦に開いていた。もっともっと近づきたい、この人みたいに歌 いたい、と思って彼女の追っかけになったくらいです。何度も通い詰めて、しまいには顔を覚えられて一緒に食事に行く仲になったほどです。
- ― オペラ歌手としても数多の海外コンクールで入賞、ローマ国立歌劇場で「カルメン」のミカエラ役でデビュー後は世界各国の名だたるオペラに出演なさいました。
- 世界の一流の方々と一緒に仕事ができた本当に素晴らしい体験です。ひとつ仕事を成せば、次の仕事が頂ける。チャンスを逃さずに目の前の仕事に臨みまし た。あちらは本当にシビアな世界。自分で完璧に仕上げていかないと、指揮者に「あ、歌えない」と思われたらすぐに降ろされてしまう。反対に急に代役を振られたりもしました。一時帰国の準備中、その日の晩の代役依頼の連絡があったりね(笑)。いつ機会が転がってくるかわからない。皆、いつもコンディションを整えて控えながら虎視眈々と狙ってるんです。
Chapter 5 - かみさまとの会話。

- ― 歌曲とオペラ、それぞれの世界に違いはあるかと思いますが、ご自身がありたい世界と現実とのギャップをどのように埋めたのでしょう?
- 歌曲は詩を語る世界、オペラはドラマの世界で各々の人が心情を歌います。もともと各局とオラトリオが好きだった私ですから、どちらかというと派手なオペラの世界にはなにか嫌気がさしてきて。インティメイトな歌曲の世界に戻りたい…と願う日々でした。でも現実として仕事は続いていく。ある日、テノール、バリトン、指揮とピアノと私で三重唱を歌っていた時に不思議なことが起こ りました。歌っているさなか、光の柱が頭から足の先まで突き抜けていったんです。白というにはあまりに厳しすぎる眩しい光。でも他の誰も気づかずに私だけが 感じていました。その光が突き抜けた後、声のみが残っていました。「どうして、迷う?あなたはあなたの歌を歌うだけで、後の事はどうでもいいこと」って。歌っているさなかに光が落ちてきて想いだけが残った。とてつもないことが起こりました。大げさかもしれない、でももしかしたらこれが「神の啓示」と言われるものなのかもしれません。音楽に向かって私は謙虚な思いで私なりにやっていけばいい、言葉にするとたったこれだけなんですけど、この日以来、歌うことに迷いは一切なくなりました。。
Chapter 6 - 人としてあるべき姿を伝えたい。

- ― 迷いが晴れ、海外の第一線で活躍なさりながら、後進の育成にも取り組むようになりました。
- 何度か音楽大学からお誘いを頂いていたのですが、本格的に携わるようになったのは40歳を過ぎてからです。ある人には「いつか、声が出なくなってから教えなさい。今は歌に専念しなさい」なんて言われたのですが声を失ってから教えるなんて本末転倒でしょう?(笑)。私は歌いながら教えるので生徒の前で失敗はできないから、とにかく必死で自分自身に集中して歌い、教えました。そのプレッシャーのお陰でどんどん自分が成長するのがわかりましたし、教えてみて、教えるのが好きだともわかりました。少しで もいいから伝わってほしい。自分の知る限りの全てを教えてあげたいと思っています。そして、今も現役で歌っているのは生徒と真摯に向き合ってきたからだと思って、この体験に感謝しています
- ― 教育において松本さんが大事にしていることは何でしょう?
- 生き様を考えてもらうことです。音楽だけ、学問だけじゃない、人としてあるべき姿を伝えたいと思っています。音楽、特に歌は身体が楽器なのよね。そうすると最後には生き様が反映されます。他の楽器の方も皆さんおっしゃいます。技術を追い求めた先、最後の突き当りは人間性よね、って。
-
- ― では反対に教えられる側の姿勢で大切なものは?
- 集中、情熱と根性(笑)。そしてもうひとつ、簡単に「わかった」と言わないこと。「わかりました」というのは百発百中の精度で出来るようになって初めて 口にしていい言葉だと思います。学ぶからには妥協しない、徹底的に自分に向き合ってほしい。イタリアの歌曲、オペラを学ぶからにはイタリア人がどの様な発生をしているのか。その声を出すにはどんな口の開け方をして身体を使っているのかなどを学ばなくてはならないと思います。国籍、文化、全てを超えて学ぶはずのことをサワリだけで学んだ気になって「日本人だから」と言い訳して。そういうのはその国の伝統文化に対して失礼だし、どの分野にも言えること何でしょうけど、何事も徹底する厳しさが芸術をする人たちにはとりわけ必要だと思います。
Chapter 7 - 真実を追い求め。

- ― osica MAGAZINEの読者は、多くの方が自分の野望に向けて一歩を踏み出しています。自分の道を歩み始めた若い世代にメッセージをお願いします。
- 何かひとつを選んで徹底的に追求することで本当の強さを持つことが出来ると思う。妥協しないで、どんな困難なことがあっても自分を許さないくらい、自分の目指したものの中に真実を追い求める。人生は苦しいことが多いものだけど、それを追う過程で苦難にも立ち向かえるようになるし、答えを見つけることが出来るから。たった一つでいいんです。自分は何者なのか、 何がしたいのかを恐れずに見つめ続けることね。
私の人生は追求ばかり。「松本さんは特別だから」などと言われたこともありますが、とんでもない。まだ「真実」がある。まだどこかにある。そうもがくから、 最近、さらに新しい技術を身につけることができました。この歳まで現役でいられるのも培ってきた技術のお陰だと思います。どんなに歳をとろうとも努力さえしていれば、ある程度年齢に関係ない結果を出せるということを若い方に示していきたいと思います。
私が触れている「音楽」には無限の力があります。ヒトに空気が必要なように人間には文化が必要だけど、心の琴線に触れるような演奏は生半可ではできません。だからこそいつまでも追求して努力したい、と思います。勿論、人としての成長もしなければなりません。歌は心を語るのです。そして最後にはその人の生き様が反映して出てくるのですから。
arrangement / osica MAGAZINE